戦国時代の「下剋上」という世相を表す人物が明智光秀です。天下人を目前に謀反にあった織田信長。その謀反の張本人である明智光秀は、ドラマやアニメ、そしてゲームなど様々なメディアで登場する歴史上の人気人物です。そんな彼のエピソードがつまった様々な観光スポットをご紹介します!
謀反を起こした人物として有名ですが、地元では善政を行った人物として知られており、領地では明智光秀を各地で祀ってあります。江戸時代には文楽や歌舞伎などでも人物を取り上げられています。近年のゲームなどにもイケメンとして登場しています。
なお、本能寺の変のあと、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北しました。その後は落ち武者狩りの百姓に刺されて死亡した、あるいはこれが致命傷となって自害したと言われています。本能寺の変の起因は未だ諸説あり、定説となるものは確立されていません。
現在も石垣の姿を見ることができます。
1571年の比叡山焼き討ちのあと、織田信長が京都と比叡山の抑えとして明智光秀に近江国滋賀郡を与え、築城させました。本能寺の変から山崎の戦いにおよぶ一連の出来事のあと廃城となり、大津城の資材として運用されました。
現在は豊臣秀吉によって現在の場所に移転し、再建された本能寺の姿を見ることができます。お寺の奥には織田信長を祀ってある「信長公廟」が見られます。
「本能寺の変」があまりに有名なためあまり知られていないようですが、法華宗本門流の大本山です。1415年、本門法華宗・法華宗本門流の始祖である日隆によって建立されました。本能寺の変により移転されるまでは京都油小路高辻と五条坊門の間に鎮座していました。
明智光秀は勝龍寺城へ帰城したものの、羽柴秀吉率いる軍の追撃を受け、勝龍寺城から先述ご紹介した坂本城へ落ち延びる道中で、落ち武者狩りにあったと言われています。1649年に永井直清が摂津高槻藩に封ぜられるとともに廃城となりました。
「順逆二門ナク、大道心源ニ徹ス、五十五年ノ夢、覚メ来ツテ一元ニ帰ス 」という辞世の句を残して命を絶ったといわれるのが「明智藪」は、このようにひっそりと祀られています。
観光用に整備されているわけでもなく、明智光秀ゆかりの地としてはマイナーですが「雨の日に明智藪を通ると軍勢の雄叫びが聞こえる」「竹を切るとケガをする」と噂されています。また、竹薮の一画に全く竹の生えない場所があり、明智光秀が体に刺さった竹槍を抜き、内蔵や血が飛び散ったためだと言われています。
死後、遺言として知恩院にて灰にするよう家臣(溝尾茂朝)に伝えました。首を抱えた家臣は知恩院のすぐそばまで来たものの、夜が明けたため光秀の首をその地の底に埋めたそう。その場所が現在の首塚だと伝えられています。
また、自害した明智光秀は家臣に首を斬らせ、竹薮に隠したものの地元の百姓に発見されて本能寺の変にて晒されたあと粟田口に築かれた首塚に埋められた、または丹波亀山の谷性寺まで持ち帰られたともいわれいます。
民家の間にあるものの、色々な人が訪れています。
先述していますが、落ち武者狩りにあった明智光秀は自害して家臣に首を斬らせ、隠されていた首が百姓に発見されて本能寺に晒された、家臣に谷性寺にもちかえらせたなど諸説ありますが、胴体はここに残されたそうです。
この祠は地元の農家の方が100年ほど前に建てたそうです。この地は明智光秀の邸宅跡だそうで、娘・ガラシャの誕生地だと言われています。なお、安置されているという木像は400年前の作であると言われています。
境内には明智一族の墓が祀られています。
知名度はあまり高くありませんが、台真盛宗の総本山です。寺伝によると飛鳥時代に聖徳太子によって建立された古刹です。明智光秀が戦死した家臣たちのために西教寺に供養米を寄進したとされる寄進状も残されているのだそう。
明智光秀のお墓に隣接して、伊達政宗や石田三成のお墓も建てられています。ほかにも武田信玄・勝頼や豊臣秀吉、織田信長など日本史を代表する数々の戦国武将がお祀りされているんですよ。分かりづらい場所にあるお墓もありますのでよく探してみてください。
明智光秀を知ることができる様々なスポットが集中している亀岡市。ここからはそんな亀岡市の有名なスポットについてみていきましょう。有名なところからちょっとマニアックなところまで、幅広くご紹介していきます!
現在は宗教法人が管理をしていて、受付をすませると見学が可能です。内堀跡にできた池「万祥池」や石垣の様子など、穏やかな風景が広がっています。駅からも程よい距離にあるので、亀岡市内の明智光秀ゆかりのスポットとしては特にアクセスの良い場所といえるでしょう。
城主だった福井因幡守貞政は籠城して戦いますが、最後は討ち死にして果てました。現在はいたって穏やかな雰囲気の広がる西岸寺ですが、かつてこの地ではそうした武士同士の壮絶な命のやり取りがあったのです。
如意寺というお寺が建てられているこの地は、むしろ境内よりも裏手にある山の方にかつての城の痕跡を多く見ることができます。パッと見ただけではなかなか痕跡がわかりにくい、ちょっとした隠れスポットです。
ここの城と亀山城の建築には山田五兵衛と言われる人間が携わっているのですが、その城の建築図がなかったり当の本人が突如姿を消しているなど、素性は謎に包まれています。そんな謎多き場所が、この馬堀城跡なのです。
丹波国分寺は聖武天皇期に建てられた歴史あるお寺ですが、明智光秀軍の丹波侵攻の際に、兵火により消失してしまいました。そんな国分寺跡、現在はゆったりとした時の流れを感じられるような場所になっています。
お寺の奥にある竹やぶにその本丸があるなど非常に見つけるのが難しい場所ですが、この城の城主である並河掃部介は、光秀の丹波攻略の際、数々の場面において大きな役割を果たした重要人物でした。数ある観光スポットの中でもちょっとマニアックな場所の1つです。
光秀の丹波侵攻時に出火などの憂き目にあった神藏寺。じつはこのお寺、あの最澄が開いたということで知られています。そしてこのお寺は、国の重要文化財にも指定されている本尊木造薬師如来坐像が祀られていることでも有名です。
京都を中心に、いろいろなゆかりの地がありましたね。民を大切にし、善政をおこなったとして知られる明智光秀。彼のゆかりの地を訪ねると、そんな彼の一面や戦国時代らしい苛烈な争いの跡など、様々な側面を見ることができます。日本の歴史においても重要な役割を果たした彼にまつわる様々な観光スポットに、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
1.明智光秀とはどんな人?
http://blog.livedoor.jp/jidai2005/archives/24038305.html
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将として知られるのが明智光秀です。織田信長の重臣の一人であったのにも関わらず、本能寺の変を起こした人物として有名です。謀反を起こした人物として有名ですが、地元では善政を行った人物として知られており、領地では明智光秀を各地で祀ってあります。江戸時代には文楽や歌舞伎などでも人物を取り上げられています。近年のゲームなどにもイケメンとして登場しています。
なお、本能寺の変のあと、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北しました。その後は落ち武者狩りの百姓に刺されて死亡した、あるいはこれが致命傷となって自害したと言われています。本能寺の変の起因は未だ諸説あり、定説となるものは確立されていません。
http://www.baike.com/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
2.明智光秀のゆかりの地
かつての栄華に思いを馳せる「坂本城址公園」
https://www.flickr.com/photos/jpellgen/3431521414/sizes/l
明智光秀が築城したといわれる「坂本城」は壮麗な城として知られていますが、現在は石垣のみとなっており坂本城址公園として整備されています。そんな城の跡地には少し可愛らしい明智光秀の銅像を見ることができます。琵琶湖を望むことができる美しい場所に建つ城だったことが伺えます。現在も石垣の姿を見ることができます。
1571年の比叡山焼き討ちのあと、織田信長が京都と比叡山の抑えとして明智光秀に近江国滋賀郡を与え、築城させました。本能寺の変から山崎の戦いにおよぶ一連の出来事のあと廃城となり、大津城の資材として運用されました。
https://www.flickr.com/photos/jpellgen/3502819471/sizes/l
■ 基本情報
- ・名称: 坂本城址公園
- ・住所: 滋賀県大津市下阪本3丁目1
- ・アクセス: 京阪電車松ノ馬場駅から徒歩25分
- ・営業時間: 24時間開放
- ・定休日: なし
- ・電話番号: 077-578-6565(坂本観光案内所)
- ・料金: 無料
歴史の転機となった「本能寺」
https://www.flickr.com/photos/ist4u/7844782774/sizes/l
明智光秀が歴史的に有名な理由として「本能寺の変」という歴史的事件が挙げられます。1582年に織田信長を自刃に追いやった事件をきっかけに、焼失してしまいます。自害した明智光秀の首がさらされたのも「本能寺」だったといわれています。明智光秀を語る際に欠かせない場所になります。現在は豊臣秀吉によって現在の場所に移転し、再建された本能寺の姿を見ることができます。お寺の奥には織田信長を祀ってある「信長公廟」が見られます。
「本能寺の変」があまりに有名なためあまり知られていないようですが、法華宗本門流の大本山です。1415年、本門法華宗・法華宗本門流の始祖である日隆によって建立されました。本能寺の変により移転されるまでは京都油小路高辻と五条坊門の間に鎮座していました。
https://www.flickr.com/photos/ist4u/7844783442/sizes/l
■ 基本情報
- ・名称: 本能寺
- ・住所: 京都府京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522, 604-8091
- ・アクセス: JR京都駅から車で10分
- ・拝観時間: 7:00~17:00
- ・定休日: なし
- ・電話番号: 075-231-5335
- ・料金:無料 [宝物館]500円
- ・所要時間: 30分
- ・公式サイトURL: www.kyoto-honnouji.jp/
山崎の戦いで布陣を敷いた「勝龍寺城」
http://piano-bike-soccer.seesaa.net/article/238128315.html
「本能寺の変」の知らせを聞いた羽柴秀吉が備中高松城の攻城戦から引き返し、明智光秀と対峙することになった戦いが「山崎の戦い」になります。そんな山崎の戦いで明智光秀が布陣を敷いたのが、「勝龍寺城」になります。この城は光秀の娘、ガラシャが嫁いだ細川家の城です。明智光秀は勝龍寺城へ帰城したものの、羽柴秀吉率いる軍の追撃を受け、勝龍寺城から先述ご紹介した坂本城へ落ち延びる道中で、落ち武者狩りにあったと言われています。1649年に永井直清が摂津高槻藩に封ぜられるとともに廃城となりました。
■ 基本情報
- ・名称: 勝龍寺城
- ・住所: 京都府長岡京市勝竜寺13-1
- ・アクセス: JR長岡京駅東口から徒歩10分
- ・営業時間: 9:00~18:00
- ・定休日: 毎週火曜日
- ・電話番号: 075-955-9716
- ・料金: 無料
- ・オススメの時期: 「長岡京ガラシャ祭」が開催される11月
- ・公式サイトURL: http://www.city.nagaokakyo.lg.jp/0000001138.html
3.様々な場所に祀られている明智光秀
明智藪(京都市)
http://s.webry.info/sp/baron88.at.webry.info/201109/article_7.html
謀反人でありながらも、激動の人生から様々な場所で祀られている明智光秀。秀吉との戦いに敗れ、再度軍を立て直すために勝龍寺城から敗走した光秀は、土民の竹槍によって致命傷を与えられてしまいます。「順逆二門ナク、大道心源ニ徹ス、五十五年ノ夢、覚メ来ツテ一元ニ帰ス 」という辞世の句を残して命を絶ったといわれるのが「明智藪」は、このようにひっそりと祀られています。
観光用に整備されているわけでもなく、明智光秀ゆかりの地としてはマイナーですが「雨の日に明智藪を通ると軍勢の雄叫びが聞こえる」「竹を切るとケガをする」と噂されています。また、竹薮の一画に全く竹の生えない場所があり、明智光秀が体に刺さった竹槍を抜き、内蔵や血が飛び散ったためだと言われています。
http://tanaka-takasi.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-9c07.html
- ■ 基本情報
- ・名称: 明智藪
- ・住所: 京都市伏見区小栗栖小阪町
- ・アクセス: 京阪バス小栗栖バス停下車すぐ
- ・営業時間: 24時間開放
- ・定休日: なし
- ・料金: 無料
- ・所要時間: 10分
光秀の首塚(京都市)
死後、遺言として知恩院にて灰にするよう家臣(溝尾茂朝)に伝えました。首を抱えた家臣は知恩院のすぐそばまで来たものの、夜が明けたため光秀の首をその地の底に埋めたそう。その場所が現在の首塚だと伝えられています。
また、自害した明智光秀は家臣に首を斬らせ、竹薮に隠したものの地元の百姓に発見されて本能寺の変にて晒されたあと粟田口に築かれた首塚に埋められた、または丹波亀山の谷性寺まで持ち帰られたともいわれいます。
■ 基本情報
- ・名称: 光秀の首塚
- ・住所: 京都市東山区三条通白川橋下る東側 梅宮町
- ・アクセス:地下鉄東山駅よりすぐ。白川沿いを歩き、東側に入る
- ・営業時間: 24時間解放
- ・定休日: なし
- ・料金: 無料
- ・所要時間: 10分
明智光秀の胴塚(京都市)
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/49148351.html
首が埋められたところは首塚。そして、残った胴体が埋められたのが、こちらの銅塚です。民家の間にあるものの、色々な人が訪れています。
先述していますが、落ち武者狩りにあった明智光秀は自害して家臣に首を斬らせ、隠されていた首が百姓に発見されて本能寺に晒された、家臣に谷性寺にもちかえらせたなど諸説ありますが、胴体はここに残されたそうです。
■ 基本情報
- ・名称: 明智光秀の胴塚
- ・住所: 京都市山科区勧修寺御所内町38-1
- ・アクセス: 醍醐駅から徒歩10分
- ・営業時間: 24時間解放
・定休日: なし - ・料金: 無料
- ・所要時間: 10分
明智神社(福井県福井市)
http://www.kaikeizin.ne.jp/hblog/2012/06/
明智光秀の木像を祀ってあるのが福井県にある「明智神社」です。小さな祠ではありますが、大切に守り続けられてきた歴史のある神社になります。年に一度、明智光秀像が一般に公開されます。この祠は地元の農家の方が100年ほど前に建てたそうです。この地は明智光秀の邸宅跡だそうで、娘・ガラシャの誕生地だと言われています。なお、安置されているという木像は400年前の作であると言われています。
■ 基本情報
- ・名称: 明智神社
- ・住所: 福井市東大味
- ・アクセス: 北陸自動車道福井ICから車で40分
- ・営業時間: 24時間解放
・定休日: なし - ・料金: 無料
- ・所要時間: 10分
西教寺(滋賀県大津市)
http://bonno-darake.at.webry.info/201005/article_18.html
明智光秀の墓は数多く存在しますが、その中でも菩提寺とされるのが、滋賀県にある西教寺になります。信長の比叡山焼き討ちの際に消失してしまった寺を光秀が再興したことから明智光秀ゆかりの寺として知られています。そのため光秀の妻、熙子の葬儀も執り行いました。境内には明智一族の墓が祀られています。
知名度はあまり高くありませんが、台真盛宗の総本山です。寺伝によると飛鳥時代に聖徳太子によって建立された古刹です。明智光秀が戦死した家臣たちのために西教寺に供養米を寄進したとされる寄進状も残されているのだそう。
http://tempsera.at.webry.info/201111/article_24.html
■ 基本情報
- ・名称: 西教寺
- ・住所: 滋賀県大津市坂本5丁目13−1
- ・アクセス: JR湖西線「比叡山坂本駅」下車、江若バスで約7分「西教寺」下車すぐ
- ・拝観時間: 9:00~16:30
- ・定休日:なし
- ・電話番号: 077-578-0013
- ・料金: 大人400円~
- ・オススメの時期:明智光秀公御祥当法要が行なわれる6月14日
- ・公式サイトURL: http://www.saikyoji.org/
高野山・明智光秀の墓(和歌山県)
https://www.flickr.com/photos/yuenchiyan/7641463056/sizes/l
数々の武将の墓が祀られている高野山にも明智光秀が祀られています。この墓には摩訶不思議な伝説が語り継がれています。お墓の五輪の塔は順に頭、顔、胸、腹、足を現しているといわれ、上から4番目の石、腹部に当たる部分に大きな亀裂が入っており、何度、石を新しくしてもヒビ割れてしまうといわれています。明智光秀のお墓に隣接して、伊達政宗や石田三成のお墓も建てられています。ほかにも武田信玄・勝頼や豊臣秀吉、織田信長など日本史を代表する数々の戦国武将がお祀りされているんですよ。分かりづらい場所にあるお墓もありますのでよく探してみてください。
http://www.panoramio.com/photo/58150815
■ 基本情報
- ・名称: 高野山・明智光秀の墓
- ・住所: 和歌山県伊都郡高野町奥の院参道
- ・アクセス: 南海高野線 極楽橋駅下車、南海高野山ケーブルで高野山駅
- ・営業時間: 24時間開放
- ・定休日: なし
- ・電話番号:0736-56-2002
- ・料金: 無料
- ・公式サイトURL: https://www.koyasan.or.jp/
御霊神社(京都府福知山市)
http://hoohappy.com/?p=1280
明智光秀を配神として祀っている京都府の神社が「御霊神社」になります。明智光秀の霊を鎮めるという意味から「ご霊神社」と名付けられたといわれています。善政を行なった明智光秀にまつわる数多くの史料を有する神社としても知られており、明智光秀の「謀反人」とは異なる一面を知ることができます。■ 基本情報
- ・名称: 御霊神社
- ・住所: 京都府福知山市西中ノ町238
- ・アクセス: 福知山ICから国道9号線経由。車で15分
- ・営業時間: 24時間開放
- ・定休日: なし
- ・電話番号: 075-441-2260
- ・料金: 無料
- ・所要時間: 1時間
- ・公式サイトURL: http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/19/057/
4.明智光秀ゆかりのスポットが多い亀岡市
丹波の地を治めるための地盤固め
京都は明智光秀ゆかりのスポットが多いことで知られますが、その中でも特に明智光秀の人間性や治世の様子を見ることができるのが、亀岡市です。JR山陰本線の亀岡駅からすぐの距離にある亀山城址を中心に、寺や城など彼が丹波を平定するためにどんな活動をしていたかがみて取れます。明智光秀を知ることができる様々なスポットが集中している亀岡市。ここからはそんな亀岡市の有名なスポットについてみていきましょう。有名なところからちょっとマニアックなところまで、幅広くご紹介していきます!
亀山城址
JR山陰本線の亀岡駅から南に直進し、クニッテルフェルト通りで迂回するように歩くと約11分ほどで見えてくるのが、亀山城址です。光秀が丹波の地を平定するための拠点として築き上げた山城ですが、明治維新以後その所有者は次々と変わるという背景を持っています。現在は宗教法人が管理をしていて、受付をすませると見学が可能です。内堀跡にできた池「万祥池」や石垣の様子など、穏やかな風景が広がっています。駅からも程よい距離にあるので、亀岡市内の明智光秀ゆかりのスポットとしては特にアクセスの良い場所といえるでしょう。
■ 基本情報
- ・名称: 亀山城址
- ・住所: 京都府亀岡市荒塚町内丸1
- ・アクセス: JR山陰本線亀岡駅から徒歩で約11分
- ・電話番号: 0771-22-5561
- ・参考サイトURL: http://www.kameoka.info/seeing/landmark/kameyamajoushi.php
余部丸岡城跡(西岸寺)
同じくJR山陰本線の亀岡駅から府道403号線、402号線を通って徒歩で15分、車で6分ほど歩いたところに、余部丸岡城跡(西岸寺)があります。ここでは他の城とは違い、丹波攻略の明智光秀との激しい戦闘が繰り広げられたと言われています。城主だった福井因幡守貞政は籠城して戦いますが、最後は討ち死にして果てました。現在はいたって穏やかな雰囲気の広がる西岸寺ですが、かつてこの地ではそうした武士同士の壮絶な命のやり取りがあったのです。
■ 基本情報
- ・名称: 余部丸岡城跡(西岸寺)
- ・住所: 京都府亀岡市余部町古城39
- ・アクセス: JR山陰本線亀岡駅から徒歩で約15分
- ・電話番号: 0771-24-4738
- ・公式サイトURL: http://jodo.jp/29-503/
山本城跡(如意寺)
嵯峨野観光鉄道のトロッコ亀岡駅から鵜ノ川を挟んで徒歩で約12分ほど歩いた距離にあるのが山本城跡(如意寺)です。丹波攻略時に明智光秀に攻め落とされて以降、京都から最も近い距離にあったこの城が案内役となったと言われています。如意寺というお寺が建てられているこの地は、むしろ境内よりも裏手にある山の方にかつての城の痕跡を多く見ることができます。パッと見ただけではなかなか痕跡がわかりにくい、ちょっとした隠れスポットです。
■ 基本情報
- ・名称: 山本城跡(如意寺)
- ・住所: 京都府亀岡市篠町山本南条66
- ・アクセス: 嵯峨野観光鉄道トロッコ亀岡駅から徒歩で約12分
- ・参考サイトURL: http://www.kameoka.info/mitsuhide/jibangatame.php
馬堀城跡
先ほどご紹介した山本城跡と亀山城址のちょうど中間地点にあった馬堀城。この城なのですが、実はJR山陰本線の馬堀駅がちょうど城跡にあたるのです。一見すると何の変哲もない駅ですが、ここにも明智光秀の丹波平定の痕跡をたどることができます。ここの城と亀山城の建築には山田五兵衛と言われる人間が携わっているのですが、その城の建築図がなかったり当の本人が突如姿を消しているなど、素性は謎に包まれています。そんな謎多き場所が、この馬堀城跡なのです。
■ 基本情報
- ・名称: 馬堀城跡
- ・住所: 京都府亀岡市篠町馬堀六ノ坪29-5
- ・アクセス: JR山陰本線馬堀駅からすぐ
- ・参考サイトURL: http://maro32.com/%E9%A6%AC%E5%A0%80%E5%9F%8E/
丹波国分寺跡
バス停の国分で下車して徒歩で約5分ほど歩いた先にある丹波国分寺跡。かつて国分寺が置かれたその場所は、オハツキイチョウとラッパイチョウという種類の名木が立ち、秋には綺麗な紅葉を見せてくれることでも人気があります。丹波国分寺は聖武天皇期に建てられた歴史あるお寺ですが、明智光秀軍の丹波侵攻の際に、兵火により消失してしまいました。そんな国分寺跡、現在はゆったりとした時の流れを感じられるような場所になっています。
■ 基本情報
- ・名称: 丹波国分寺跡
- ・住所: 京都府亀岡市千歳町国分桜久保25
- ・アクセス: バス停国分で下車して徒歩で約5分
- ・参考サイトURL: http://www.kameoka.info/seeing/landmark/kokubunji.php
並河城跡
亀岡市内には一見それとわかりにくい城跡が数多く存在しますが、並河城跡もその1つです。この城跡はJR山陰本線の並河駅から府道402号線を南下した先にある法然寺を目標にすると、いくつかその痕跡を見つけることができます。お寺の奥にある竹やぶにその本丸があるなど非常に見つけるのが難しい場所ですが、この城の城主である並河掃部介は、光秀の丹波攻略の際、数々の場面において大きな役割を果たした重要人物でした。数ある観光スポットの中でもちょっとマニアックな場所の1つです。
■ 基本情報
- ・名称: 並河城跡
- ・住所: 京都府亀岡市大井町並河1-38-36(住所は法然寺のもの)
- ・アクセス: JR山陰本線並河駅から徒歩で約10分
- ・参考サイトURL: http://www.siromegu.com/castle/kyoto/nabika/nabika.htm
神藏寺
バスで「グリーンハイツ口」で下車し、徒歩で約15分歩いた先にある神藏寺。市街地から離れているこのお寺は四季折々の自然をダイレクトに感じることができ、中でも秋の紅葉は思わずみとれてしまうほどの美しさがあります。光秀の丹波侵攻時に出火などの憂き目にあった神藏寺。じつはこのお寺、あの最澄が開いたということで知られています。そしてこのお寺は、国の重要文化財にも指定されている本尊木造薬師如来坐像が祀られていることでも有名です。
京都を中心に、いろいろなゆかりの地がありましたね。民を大切にし、善政をおこなったとして知られる明智光秀。彼のゆかりの地を訪ねると、そんな彼の一面や戦国時代らしい苛烈な争いの跡など、様々な側面を見ることができます。日本の歴史においても重要な役割を果たした彼にまつわる様々な観光スポットに、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。