Yasuo Kida
寺田屋のこと、皆さんはご存じですか?これは慶長2年に創業した船宿で、今では史跡博物館と旅館として併用されています。幕末には、京都と大阪を移動する際の宿として便利であったことから、薩摩藩の志士の定宿としても利用されていたそうです。そして、その名を一躍有名にしたのが、島津久光による尊攘派志士9名の殺害や、坂本龍馬の襲撃など、今も日本の歴史に名を残す大事件の数々でした。今回は、今も当時のままの姿を残すこの施設についてご紹介します。 1、寺田屋とは?
2、寺田屋事件とは
1、薩摩藩尊皇派が起こした事件
文久2年、薩摩藩主であった島津久光が京に上る事により同行した薩摩藩の尊皇派が、気を早らせるあまりに尊皇派、尊皇攘夷派を倒し倒幕せんと計画をしたことが始まりです。それを知った島津久光は、藩命でこれを阻止しようとしましたが血気盛んな薩摩志士は話を聞かずに身内での争いになりました。倒幕の為とはいえ、関白・九条尚忠と、京都所司代・酒井忠義の屋敷を襲撃し、安政の大獄以降に幽閉されている尊融法親王を助け出す計画は余りにも危険すぎたのです。2、龍馬襲撃事件
夜更け過ぎに、龍馬の恋人「おりょう」がお風呂に入っていて外が騒がしい事に気付きました。裸同然の格好で階段を駆け上がり、2階に居る龍馬へ逃げるように言った事は小説でもドラマでも有名ですね。龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで応戦、数発を発砲し逃げるようにその場を後にします。その時に、左の指を負傷し刀が握れなくなりピストルを好んで使ったのではないかとも言われるようになりました。
刀は片手で振り回せる程軽くはありませんし、この負傷が「刀抜かずの坂本龍馬」を作ったとしても不思議ではないと思います。この日は難を逃れましたが、その後近江屋で暗殺される事となります。北辰一刀流の 免許皆伝でもあった龍馬の左手の負傷は、その後の暗殺事件にどう影響があったのかは謎のまま、今も解き明かされることはありません。
3、寺田屋の見どころ・ポイント
1、事件当時の弾痕
龍馬が襲われた時の刀跡や弾痕が残されていますが、当時の池田屋は鳥羽伏見の戦いで焼け落ちています。隣接する場所に、当時のままに再建されているので「当時のまま」ではないのは仕方がないでしょう。かつての建物があった場所は、史跡庭園となり龍馬像が建っています。2、庭園にある石碑
旧宅の跡であることを示す「遺址」が隣の庭園にあり、かってはここが池田屋であった事がわかります。多くの犠牲者を出した鳥羽伏見の戦いは、京都の景観すら大火で燃やしてしまったのです。それでも当時の池田屋の面影はしっかりあるので見ごたえはありますね。3、おりょうが入っていた風呂
当時の風呂は、人が一人入れるくらいしかない小さなもので木樽のようなものではあります。これも当時のままに再現されていて、この風呂から飛び出すのは大変だっただろうと思われます。当時の人は小柄なので、風呂も小さいのですけれど・・・4、寺田屋を訪れた人の声
今日はあの寺田屋に泊まるよ! 日本史の人はわかるかなwww 父親の趣味でござる