名の通りに聖徳太子が通ったとされる街道のことで、全国にはたくさんの太子道が存在しています。「法隆寺街道」と呼ばれる法隆寺と飛鳥地方を結んだ「筋違道」、太秦広隆寺への参詣道として利用されていた道は旧二条通と呼ばれているのです。今回は広隆寺への参詣道「太子道」を紹介します。
西ノ京壺井町にある「壷井」という井戸の前の道が広隆寺に繋がる道になっていて通称太子道と呼ばれています。平安京では大炊御門大路、江戸期以降は竹屋町と呼ばれていました。この町の井戸から地蔵尊が見つかっていて太子道に安置されています。
壺井地蔵のある井戸前の前から延びる道は、広隆寺へと続きます。参詣に訪れる人が「太秦の太子さん」と呼んで親しむ広隆寺までの道はあぜ道。この地域に人たちが参詣にこの道を選んだのは、田畑の中から
いつでも広隆寺に行けるようにとの願いだったのではないでしょうか。
この壺井の水は処刑される罪人の末期の水になっていたそうで、西土居処刑場が近くにあった事も関係しているのかも知れません。
千本通より西側の道が旧二条通とされるようですが、平安京以来の二条通は今も昔も二条通だったはずなんです!!
徳川家康が二条城を造築した時に、二条城をはさんだ通りの分断が曖昧になったことが、ややこしい状態になったのではないかとも言われているんですね。現在は一本南側に「新太子道」もできたそうで、補整されたこちらがメインに使われるようになっています。
本尊は国宝指定第1号の弥勒菩薩であることはあまりにも有名すぎますね。右足を左膝に乗せ、右手をそっと頬に当て思索にふける半跏思惟像はみる人全てを魅了してしまう不思議な美しさ。聖徳太子で有名ですが、この弥勒菩薩を1度みると何度でも見たくなる人も多いんですよ♪
1.「太子道」とは?
西ノ京壺井町にある「壷井」という井戸の前の道が広隆寺に繋がる道になっていて通称太子道と呼ばれています。平安京では大炊御門大路、江戸期以降は竹屋町と呼ばれていました。この町の井戸から地蔵尊が見つかっていて太子道に安置されています。
2. どんな魅力が?
壺井地蔵のある井戸前の前から延びる道は、広隆寺へと続きます。参詣に訪れる人が「太秦の太子さん」と呼んで親しむ広隆寺までの道はあぜ道。この地域に人たちが参詣にこの道を選んだのは、田畑の中から
いつでも広隆寺に行けるようにとの願いだったのではないでしょうか。
3.見どころ・お勧めポイント
壺井地蔵尊
名水と言われた井戸だったそうですが、現在は枯れてしまい井戸の上に壺井地蔵が安置されています。この地蔵尊は、壺井の井戸から出できたものでそれは江戸時代だった事も「太秦村行記」に記されています。この壺井の水は処刑される罪人の末期の水になっていたそうで、西土居処刑場が近くにあった事も関係しているのかも知れません。
旧二条通
徳川家康が二条城を造築した時に、二条城をはさんだ通りの分断が曖昧になったことが、ややこしい状態になったのではないかとも言われているんですね。現在は一本南側に「新太子道」もできたそうで、補整されたこちらがメインに使われるようになっています。
広隆寺
秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺。太子道を歩くと広隆寺にまっすぐ突き当たります。本尊は国宝指定第1号の弥勒菩薩であることはあまりにも有名すぎますね。右足を左膝に乗せ、右手をそっと頬に当て思索にふける半跏思惟像はみる人全てを魅了してしまう不思議な美しさ。聖徳太子で有名ですが、この弥勒菩薩を1度みると何度でも見たくなる人も多いんですよ♪
4.口コミ
▲裏・歴史▼ 聖徳太子はペルシャ人!?北斗七星と太子道の驚くべき関係!![ミステリー#75]: http://t.co/58iL0SRePn
— ちゃっぴー (@mbo8164) 2015, 8月 13
@yoshiyoshiko555 あー