今回は足利尊氏の墓所としても知られている等持院の魅力についてご紹介します。
等持院とは?
暦応4年(1341年)、足利尊氏が天龍寺の夢窓国師にお願いして、衣笠山の南麗に創建された臨済宗の寺です。義光・義正両将軍たちが、全力を尽くして立派にされた禅宗十刹の筆頭寺院であり、更に、尊氏・善詮将軍当時の幕府の地の近くにあった等持寺も移され、足利将軍家の菩提所になりました。応仁の乱の戦乱などに見舞われましたが、豊太閤も秀頼に立て直させたほど、この寺を重んじたそうです。足利15代、230余年の歴史の貴重な文化財が保存されています。。等持院の歴史
もと仁和寺の一院であったが、南北朝時代の暦応4年(1341)に足利尊氏が夢窓国師を開山として中興し、三条高倉の等持寺の別院としました。延文3年(1358)尊氏の死後、その墓所となり、その法名をとって「等持院」と名づけ、のち、等持寺を合併して臨済宗天竜寺派に属するようになりました。 足利氏の菩提所として堂塔伽藍は衣笠山麓に威容を誇ったが、長禄年間(1457~60)以来、しばしば火災にあって荒廃し、現在の建物は江戸・文政年間(1818~30)の建立です。等持院の魅力
等持院は表通りから少し奥まったところにあり、観光シーズンでも意外と拝観される方が少なくゆったりと拝観できる寺院です。足利家の菩提寺で、境内の霊光殿には尊氏念持仏の利運地蔵尊を本尊に、足利歴代将軍の等身大の木像があります。 五代の義量、十四代の義栄をのぞく13体の木像が並ぶ空間は圧巻です。
また、夢窓疎石作と伝えられている東西に分かれた庭園があり、西の庭は芙容池と称し衣笠山を借景にした池泉回遊式庭園で、北側には義政公好みの茶室清漣亭があります。紅葉は11月中旬に見ごろを迎えます。庭園は赤く色づき、池に映しだされる紅葉も美しく、参拝者を魅了します。
等持院の見どころ
庭園
天龍寺や西芳寺の庭の作者として有名な夢窓国師が等持院開創当時に構築されたもので三大名園の1つです。万丈の北庭(書院の東側)は、草書体の心の字をかたどって作られた池庭で、奥深く静かであります。また西庭は、芙蓉の花を形どった池があり芙蓉池と称されており、衣笠山を借景にした池泉回遊式で、南の方丈、西の書院、北の茶室・清漣亭の3つの建物に囲まれています。有楽椿
等持院の有楽椿は樹高10数m、根元の幹周「100㎝」地上85cmで三つに分かれていて、現存する有楽椿最大樹です。織田有楽の時代秀吉が秀頼に寺を再興させたときに庭園の修復とともに植えたものと伝えられるもので四百有余年の歴史を誇る椿です。今はその枝いっぱいに淡いピンクの花を咲かせ、緑の苔の美しい木のたもとに花の姿のまま落ちています。緑の苔に、鮮やかな落椿は見事です。歴代足利将軍の木像
歴代足利将軍の木像が奉安されているのは、等持院の方丈(釈迦如来坐像が本尊として奉安されている本堂)の東隣に位置し、方丈とは渡り廊下で繋がっている「霊光殿」という建物です。等持院参加者の声
等持院 あまり観光客がいなくて静か お庭が素敵過ぎる〜. ゜*。:゜ pic.twitter.com/t7hbambGKf
— すみれおん (@sumi_leon) 2015, 8月 2
等持院足利尊氏像:京都にある臨済宗天龍寺派の寺院で、足利氏の菩提寺。尊氏は後醍醐天皇に反逆したとして、幕末以降逆賊扱いされてきたが、戦後の歴史観の変遷を経て再評価され始めた。京都の時代祭で永く室町時代がなかったのもこの事に起因する。 pic.twitter.com/B568tzmjt7
— 仏像紹介BOT (@butsuzobot) 2014, 12月 7
足利十五代の魂の眠る場所… #室町殿の冬休み pic.twitter.com/ynCuKZElMC
— 足利義教 (@kujibiki_bot) 2013, 12月 27
等持院・基本情報
■ 基本情報
- ・名称:等持院
- ・住所:京都市北区等持院北町63
- ・アクセス:京福電車「等持院駅」下車、徒歩約10分
- ・拝観時間:9:00~17:00(16:30受付終了)
- ・電話番号:075-461-5786
- ・拝観料:大人500円 小人300円
- ・公式サイトURL:https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000178