安土城は希有の戦国武将「織田信長」が乱世の時代を駆け抜け天下統一の礎を成し、その拠点となるよう、交通に便利な琵琶湖のほとりに築城されました。歴史好きの人やお城愛好家の方は知っていると思いますが、前代未聞の城として、一番人気といわれる方も多いのでは?1582年の本能寺の変の後、明智光秀が討ち取られた直後の混乱の中、完成から10年経たずに天守閣他が焼滅してしまい、その後も顧みられることが無く廃城となったことから、幻の城とも言われています。今でも城跡は保存されていて、麓から山頂にかけて多数の史跡があります。また、これを見るために多くの観光客が訪れます。入り口に着いて見る石段にはびっくりするかもしれませんが、一度は訪れたいお城でもあります。その参考にと全容をご紹介します。
■安土城とは?
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安土城は、天正4年(1576年)から織田信長が約3年の歳月をかけて完成しました。その後本能寺の変によって、天正10年(1582年)には明知光秀が城を占拠しましたが、焼滅となります。当時は天主をもつ最大級の山城として、威風堂々とした姿を現していましたが、今日ではその跡が残るのみです。約3年の歳月をかけたと言われていますが、安土城の規模や構造から考えますと極めて短時間の工期であったと思われます。それだけに築城主である織田信長の権勢や当時の支配勢力の絶大さが推測されます。
安土城は最初の近世城郭とも言われています。その理由として総石垣造りの城、巨大な天守閣などが挙げられています。最大の特徴は信長の思想が大きく反映されているという点。信長自分の理想、掲げるものすべてを表して建築されたのが安土城ということになります。
琵琶湖の東岸、現在の滋賀県近江八幡市安土町にあった安土城・城址は史跡名勝天然記念物のなかでも特に重要とされている国の特別史跡でもあります。日本の城の歴史という観点から見ると安土城は六角氏の観音寺城を見本にした総石垣の城郭で、ここで培われた築城技術は安土桃山時代から江戸時代にかけての近世城郭の範となっているのです。
■安土城の歴史
http://www.venus.zaq.jp/voyage/hikra/gv-sAduti.html
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写真(上)は安土城のもととなる「縄張り図」です。築城に先駆けてのデザイン図のようなものです。これによると、天主をはじめとする城の概要がつかめます。大手門から家臣団の邸宅、本丸御殿、摠見寺なども含まれています。安土城の歴史の中でもっとも有名なのは本能寺の変です。これは信長が討たれると同時に城が炎上したというもの。しかしこの原因は明智光秀が火を放った、とか明智の残党を掃討しようと信長側が城下に火を放ったときに燃え移ったとも言われています。信長の死後も3年弱は使われていました
安土城が築城開始されたのは天正4年(1576年)。織田信長が移り住んだのがその3年後の天正7年(1579)となっています。同年頃には落雷によって本丸が焼失したことをルイス・フロイスの著書「日本史」に記されています。そして天正10年(1582年)、かの有名な本能寺の変によって天主及び周辺建物が消失してしまったのです。
築城から天主、本丸の焼失まで
もともと安土城が建てられる前は、目賀田山と呼ばれていました。ここには明智光秀の配下にあった目加田氏の居城がありました。この地に織田信長が安土城の築城を考えるようになるには、当時の戦略的な意味が背景にあったと言われています。それは、岐阜城より京都に近く、越前加賀の一向衆の一揆や上杉謙信への備えが大きな理由の一つでしょう。また、この地が水運利用にも適した位置であったことも理由の一つです。さすが織田信長ならではの発想があったと推測できます。
築城に取りかかったのが、天正4年(1576年)。およそ3年で、天主の高さが約32m、地下1階地上6階の堂々とした城が完成しています。築城の総奉行は丹羽長秀、縄張り奉行には羽柴秀吉、大工奉行は岡部又右衛門がその任にあたったと言うことです。
大工奉行であった岡部又右衛門をはじめ築城に携わった人物像や、当時の築城の様子を映画化されたのが「火天の城(かてんのしろ)」です。主役の岡部又右衛門を演じたのが名優、西田敏行氏です。
そのような安土城ですが、10年あまりの短命に終わります。天正10年(1582年)の「本能寺の変」によって織田信長は自害します。その後、明智光秀が安土城を占拠しますが長くは続きません。原因は定かではありませんが、焼滅という運命をたどります。
本丸など一部は焼滅したものの、城としての機能はまだまだ十分に残すものであったと言われています。その後は時の政権の推移によって廃城となります。今では石垣などの一部の遺構を残すのみとなっています。
信長といえば安土城、安土城といえば信長、というふうに安土城は信長無しでは語れない城になっています。短命だったにも関わらず、さまざまな謎が残り現在でも多くの研究者が追求し翻弄される様はまるで信長の掌で踊らされているようにも思えますね。
焼失の原因として最も多く記されているのは本能寺の変によって明智光秀の謀反にあい、横死を遂げた信長の死後に安土城の守備についていた明智秀満軍が敗走の際に火を放ったこととされています。他にも織田信雄軍が明智残党を炙り出すために放火した、もぬけの殻となった安土城に野盗が侵入し放火したなどの説があります。実際にはわかっておらず、どれも推測の域を超えません。
織田信長の人物像
織田信長と言えば歴史上においても重要な役割をはたした戦国武将。誰もが知っている人物の一人と言えるでしょう。歴史小説や戦国時代を描写した映画でも度々登場してきます。しかし、その人物像となると諸説様々あり、真偽は謎となっている人物でもあります。織田信長の人物像にせまる史料に「信長公記」があります。これによると少年時代は、「尾張の大うつけ」と言われるほど奇怪な言動が度々取り上げられています。これは、織田信長を印象付ける点の一つにあげられます。
例えば身なりも奇怪で、尾張国古渡城主であった織田信秀の嫡男とは到底思えないような少年であったようです。もちろん城内にいて、じっとしているような少年ではありません。領民である少年たちと共に戯れるなど、身分など全くこだわならい少年であったようです。
こうした少年期を経て、家督を継いだ信長は尾張の一小大名から、やがては天下を統一する礎を築くことになります。幾多の戦いでも、当時の常識からはかけ離れた作戦を展開したようです。「尾張の大うつけ」は将来においても発揮されていたと言うことになります。
楽市楽座の経済政策も信長ならではのものでしょう。ものを生産することも重要な点ですが、ものの流通によって更に豊かになるという着眼点は当時の政策では珍しいものでした。それを持ち得たのも織田信長の人物像と言えるのではないでしょうか。
自由奔放でやりたい放題、当時はものすごく珍しい人物だったことでしょう。しかしその自由な発想はさまざまなところに活かされていました。家督を継ぐまでの行動、継いでからの信長に一切のブレがなく、よく言えば裏表のない、悪く言えば自己中心的な性格。しかしそんな自由な信長だからこそ現在まで語り継がれているのかもしれません。
人間味溢れる織田信長は自由奔放な行動をする反面、民のことをよく考えた政策も多々取り入れています。自由人であるにもかかわらず、自分以外の人間のことも考えることができるのはまさに大将の器とも言えるでしょう。だからこそ現代において多くのファンがいるのではないでしょうか。
安土城の特徴
あくまでも安土城のレプリカ建築です。復元には様々な案があり、実際には実現していません。しかし、史料などから当時の安土城の姿が少しずつ明らかにされてきているのも事実です。ここでは、安土城の特徴を探っていきましょう。
当時の資料を参考に、安土城の天主は外観5層、内部は地下含め7階建て、ということはわかっています。しかし詳細な部分はわかっておらず、安土城の復元イメージは研究者によってさまざまなのです。安土城の特徴は以下のとおりです。
安土はその昔東西に陸路があり、瀬戸内海や大阪からの水路の便も良い場所でした。当時は近江を制すれば日本を制することができる、とも言われたほどです。さらに信長の生まれ故郷・尾張からは都である京都から近い。しかし信長が築いたのは「守る城」ではなく天下布武、武家の政権を以って天下を支配するような強固な意志を象徴する城だったのです。
心柱の礎石はありません
日本建築、例えば各地にある五重の塔などには「心柱」が立てられます。それによって構造上の強化がはかられます。しかし、安土城には心柱の土台となる礎石が存在していないことが発掘調査によって明らかにされています。心柱がなく4階部分までが巨大な「吹き抜け」スペースとなっていたと考えられています。では中央の穴の中には何があったのでしょうか。発掘調査によると焼け落ちた天主の炭などの中から、壺の破片などが見つかったと言うことです。この穴の上に仏教の宝塔があり、仏舎利の容器があったと推測されています。
礎石となる心柱の位置に穴が存在したものの、礎石があった形跡はない。これは安土城の謎の一つでもあります。最初から大黒柱がない構造だったのかもしれませんが、この時代ではとても珍しいことです。もしかするとはじめから礎石など存在していなかったのかもしれません。なぜそのようになっていたのかは信長自身しかわからないということです。
吹き抜けの建物といえばキリスト教の大聖堂を思い浮かべませんか?織田信長自身もイエズス会の宣教師たちから本国の大聖堂の話を幾度となく聞かされていたのではないでしょうか。負けず嫌いの信長、その華麗な内部を思い描いて安土城を築城したのだとしたら教会の大聖堂に劣らぬ天守閣を築いたとしてもなんら不思議はありません。
軍事戦略より政治的な役割をもたせたお城
安土城は旧来の城閣とはちがい、城を中央集権的な性格の政庁とするとともに、自らの居住空間としていました。標高100mあまりの安土山全体をそのようにデザインしています。重要な家臣団の邸宅を配置していたのもそのためです。軍事戦略上という点と、政治的な意味合いをもたせたものであったのが安土城の特徴かもしれません。以後、豊臣秀吉や徳川家康もこれに倣って城を構えます。
これまでの城といえば戦うために存在する軍事的な要素がほとんどでした。しかし信長は安土城を政治・経済の中心地とする要素や生活の場である一面も与えています。また、天守の過剰なまでの装飾や豪壮な石垣も自身の威光を示すステータスとなっています。
通常、城内の道というのは敵の侵入を阻むためにできるだけ細く、曲がりくねったものを作るのが定石。しかし安土城には籠城用の井戸や武者走り、石落としなどの設備が非常に少なくなっています。しかも大手門からの道幅は6mとかなり広く、約180cmもの直線が続いています。このようなことからも軍事拠点と言うよりは政治的機能を優先させて造ったのではないか、と言われています。
城内に大規模な寺院が!
城郭内に大規模な堂塔伽藍を有する寺院がある城は安土城だけです。しかも登城するには必ずその寺院を参詣しなければならなかったと推測されています。寺院の名は「摠見寺」。臨済宗妙心寺派の寺院です。城の南西の入り口からの道(百々橋口道)を通って城につながっています。なぜそのような摠見寺を築城と併行して建立したのでしょうか。信長と言えば比叡山焼き討ち事件や一向宗の弾圧などで知られるように、宗教とは相いれないイメージがあります。摠見寺建立の意味については後ほど考えたいと思います。
城内に宗教施設を取り入れた城は安土城以前や以降にも存在しています。しかしこのように堂塔伽藍を取り入れていたのは安土城だけ!これはヨーロッパの城郭が城と教会、双立していることをヒントにしたのではないか、とも考えられています。異国のものを取り入れていた信長らしいですね。
先ほども記述したように、もし、信長が安土城築城の際に教会の大聖堂を模したのであれば城内に大規模な寺院があってもなんら不思議はありません。異国のものをいち早く取り入れていた信長が考えそうなことだと思いませんか?
あの信長が信じるものとは?
宗教とは無縁のような織田信長のようですが、安土城には宗教的なものがたくさんあったと伝えられています。摠見寺がその第一のものでしょう。発掘調査によって推測される仏教の宝塔もそうです。室内にあったとされる絵画にも宗教色の強いものがあったようです。織田信長の人物像からはかけ離れているように見えますが、戦乱の世を幾たびの戦いや襲撃によって乗り越えてきた経緯の中にそんな一面も持ち合わせていたのかも知れません。
信長という人物は自由奔放で、なにものにもとらわれないというイメージがあります。しかし、宗教色の強いものが多く存在しているとなるとやはり何かしらの信仰はあったのだと考えることもできます。意外かも知れませんが、宗教を信仰していた時代背景を考えるとさほど不思議ではありませんね。
織田信長に関するさまざまな文献を見る限り、徹底した合理主義、能率主義だと考えられる信長。既存の価値観や伝統的な価値観に囚われず、自身の考えや戦略、政治を行っています。たとえ身分が低くても有能であれば侍大将に任命することもしています。そんな信長だからこそ独自の信仰心があったと考えてもいいのではないでしょうか。おそらく信長は自分自身を一番信じていたのではないでしょうか。
似ている本丸御殿と清涼殿 その秘密!
安土城を築城した頃は、織田信長がほぼ天下統一の礎を固めた頃です。武士集団のトップとなれば時の天皇(ミカド)との関係はとても重要なものとなります。従来では「征夷大将軍」として天皇を護る立場で、幕府政治を遂行するのが通例でした。しかし、織田信長はどうだったでしょうか。上洛ははたすものの「官位」については無頓着、逆に一線を画する立場をとります。
このような織田信長ですが、安土城に本丸御殿を建てます。この本丸御殿の礎石群をみると清涼殿と酷似していると言われています。このことから、本丸御殿は天皇を迎えるために造られた建物ではと考えられています。
事実それを裏付ける史料も存在しています。「信長公記」で大田牛一が、「御幸の間を拝見するようにとの仰せで,申すのも恐れ多い一天万乗の帝の御座である御殿へ召されて拝覧できたことは,まことにありがたく,この世の思い出となるものであった。(現代語訳)」とあります。
そこで天主と本丸御殿の位置関係を見ますと、天主のほうが高い所にあるのです。当時の考え方から言いますと、織田信長の方が天皇より権勢の強い立場にあるという見方につながっていたのではないでしょうか。一説によるとこの事が後の信長の運命につながっていったという見方もあります。
本来本丸御殿は城の城主が住むための部分。その本丸は清涼殿、つまり天皇が起居する建物のことです。このことから実現はされなかったものの、信長は天皇を安土城に招き入れようと考えていたのではないでしょうか。信長自身は天守に居住を構えていましたが、実は居住空間として利用していたのは信長だけだったそうです。
さらに詳細な調査を行い復元図を作成した結果、建物は3つ存在したことが明らかになっています。その配置は「コ」の字型という特殊なもので、これは清涼殿と共通しているそうです。1613年に江戸幕府が建てた清涼殿の図面を東西逆にすると復元図とほぼ一致するそうです。これらのことから安土城本丸御殿は天皇を迎えるための施設という可能性が指摘されています。
常識外れの山城 築城の秘密?
先に述べましたように、安土城は軍事戦略的な要素以上に政治戦略的であったと思われます。大手門からの登城道は広く、まっすぐに延びています。通常では考えられません。いかにも攻めやすい道です。また、通常は籠城のための井戸を数か所掘削しますが、数はとても少ないようです。ほとんど無防備の城と言ってもよいでしょう。織田信長自身がそのようなものは不必要と考えていたからではないでしょうか。
■安土城について
http://ihistory.blogspot.jp/2012/03/blog-post.html
写真はバーチャルリアリティーで表現された安土城です。なぜ安土に築城したのでしょうか?
安土城は滋賀県近江八幡市安土町下豊浦にあります。この場所に築城した根本的な理由は、位置的に要衝の地であったことでしょう。軍事的、政治的、経済的にも好立地の場所だったと考えられます。宣教師のフロイスが「フロイス日本史」のなかで、「きわめて広大な平地,これを越えて望むと,片側には麓に大きな湖があり,各種各様の舟が往来し,他方,見渡すかぎりの田野が開け,その間に城や多数の村落が展開している.それらすべての全範囲に渡って格別の清純さが見受けられる」と記しています。
「天守」と「天主」 なぜ信長は「天主」と呼んだのでしょうか?
http://s.webry.info/sp/68971846.at.webry.info/200810/article_2.html
城を象徴するものが「天守」です。表記は通常「天守」となります。しかし、安土城には「天主」と表記し使われてきました。それは築城主である織田信長が「天主」を敢えて使ってきたからであろうと言われています。「天主」の意味は、カトリック教会などで、三位一体の神を指すと言われています。織田信長がこの意味を知っていたかどうかは分かりませんが、敢えて「天主」と呼んだのは何らかの意図がはたらいていたであろうと思われます。当時の天主は、高さが約32m、地下1階地上6階(他の説では7階とも)、山城でありながら政庁的な役割をはたせる巨大なお城です。
■現在の安土城
http://blog.livedoor.jp/sujin_10/archives/27116180.html
発掘調査で浮かび上がる安土城!
幸いにも安土山と安土城跡は、1617年に2代将軍徳川秀忠が「摠見寺」に支配権を認めたことにより安土山全体が摠見寺の持ち物となりました。また、その後商業使用はなくそのままの状態で残されていたようです。そのため、現在の安土城は平成元年から20年計画ですすめられてきた発掘調査と環境整備によって、次第にその姿が忠実に明らかにされてきました。発掘されたり残されたりした石積みも「穴太衆」の確かな技が今に伝えれています。以下、発掘によって明らかにされた主なものを取り上げてみます。
1989年(平成元年) 伝羽柴秀吉邸跡で五棟の建物跡を検出。1990年(平成2年) 伝羽柴邸跡で櫓門跡を検出。136メートルにわたり大手道の当初ルートを確認。1991年(平成3年) 伝前田利家邸跡で建物四棟と木樋暗渠を検出。黒金門に至る大手道の全ルートを解明。
1993年(平成5年) 大手門とその東西に続く石塁跡を発見。東家文書を調査し旧安土城下の絵図を多数発見。1994年(平成6年) 旧摠見寺境内地を調査し当初の伽羅配置を明らかにする。摠見寺の高石垣を解体し当初の大手道を検出。1996年(平成8年)米蔵付近より金箔貼りの鯱瓦を発見。
1997年(平成9年) 搦手道の全ルートを解明。1998年(平成10年) 天主台下から焼失建物とともに多数の遺物を発見。1999年(平成11年) 本丸跡から清涼殿と同じ平面を持つ建物を発見。
詳しくは下記URLへアクセスしてみて下さい。
http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/sogo/kakuka/ma16/aduchijo/index.html
とても多い復元案
これだけの安土城ですから、その復元を歴史ファンやお城愛好家は望む事でしょう。しかし、安土城の復元案は多数あります。史実に基づくものであることは当然ですが、膨大な費用も関係するのでしょう。未だ復元に至らないのはある意味自然なのかも知れません。幾つかの復元案をご紹介しましょう。奥村徳義案-1858年(安政5年)層塔式7重8階又は7階で初重平面は長方形。壁は真壁で色彩は分からないが破風も千鳥破風と唐破風。6、7重は八角堂に四方の望楼。
土屋純一案-1930年(昭和5年)望楼式6重7階で初重平面は長方形。壁は下見板張り。3重目に吹き降ろした屋根に付属するように小柄の入母屋。破風の位置は名古屋城天守や福山城天守に類似。5、6重は八角堂に熊本城天守のような内高欄廻縁の四方の望楼。
桜井成広案-1959年(昭和34年)望楼式6重7階。初重平面は不整形な六角形。外観は下見板張り。3重に向唐破風の出窓4重目に大入母屋。5、6重は八角堂に宝形屋根の四方の望楼。
西ヶ谷恭弘案-1993年(平成5年)望楼式6重7階地下1階。初重平面は長方形。天守台いっぱいには造られず、天守曲輪で形成。外観は下見板張り。大入母屋を交互に重ねた形。5、6重は夢殿を模した八角堂に金閣を模した杮葺の切妻を載せたような入母屋屋根(しころ屋根)で全面金箔貼の四方平面の望楼。
内藤昌案-1994年(平成6年)望楼式5重7階地下1階。初重平面は不整形な六角形。外観は下見板張り。複雑に入り組んだ屋根。4、5重は赤瓦の入母屋を被った四方の望楼。内部を「天守指図」に習って、吹き抜け。
宮上茂隆案-1994年(平成6年)望楼式5重6階地下1階。初重平面は長方形。天守台いっぱいには造られず、天守曲輪が形成。外観は下見板張り。3重目に大入母屋がある。4、5重は八角堂に赤瓦の入母屋を被った四方の望楼。
佐藤大規案-2005年(平成17年)望楼式5重6階地下一階。初重平面は不整形な六角形。外観は下見板張り。2重目・3重目を交互に大入母屋。4、5重は八角堂に赤瓦の入母屋を被った四方の望楼。
■城郭内にあった寺院、摠見寺
http://blog.livedoor.jp/info29/archives/50713751.html
写真は、信長が安土城内に建てた摠見寺の三重塔。摠見寺とは
摠見寺(そうけんじ)は、安土城内にある臨済宗妙心寺派の寺院です。織田信長の安土城築城の際、併行して建立されました。織田信長の菩提寺としての役割をはたし、歴代住職は織田一族が勤めてきたと言われています。安政元年(1854年)11月16日、本堂など主要な建物のほとんどを焼失し、その後、城内にあった徳川家康邸跡と伝えられる場所に仮本堂を建てたと言われています。檀家はなく、次第に衰退していった時期もあったようです。
この摠見寺で、江戸期に入り、天和元年(1681年)に信長の百回忌、享保16年(1731年)に百五十回忌、天明元年(1781年)に二百回忌、天保3年(1832年)に二百五十回忌の法事が営まれたという記録が残されています。
拝観もできます
城内に宗教施設があったと言うことは、歴史上稀なことと言われています。しかも織田信長が築城した安土城内にありますので、歴史好きやお城ファンにとっては興味が湧いてきます。拝観は日曜日と祝日のみとなっていますが、一度は訪ねてみたいものです。■ 基本情報
- ・名称:安土城(山城)
- ・住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
- ・アクセス:JR琵琶湖線安土駅下車 徒歩20分
- ・開館時間:●滋賀県立安土城考古博物館 9:00~17:00(入館は16:30まで)
- 休館日 月曜(休日の場合は除く)
- 休日の翌日(土曜日・日曜日の場合を除く)、12月28日~1月4日まで
- ●安土城天主 信長の館(文芸の郷) 9:00~17:00(入館は16:30まで)
- 休館日 月曜(休日の場合は除く)
- 休日の翌日(土曜日・日曜日の場合を除く)、12月28日~1月4日まで
- ●安土城郭資料館 9:00~17:00(入館は16:30まで)
- 休館日 月曜、年末年始
- ●摠見寺 日曜祝日のみ開堂:雨天時閉堂
- ・電話番号:0748-46-4234 安土駅前観光案内所
- ・入山料:安土城入山料 大人500円 小人100円
- 摠見寺拝観料 入山料 500円と本堂特別拝観 500円
安土城の紹介、いかがでしたか?これほど有名なお城ですから、歴史好きな方はもちろん、城好きの方にもおすすめの場所です。また、築城当時から残る壮大な石垣を見て、世界で始めて建てられたといわれる高層建築を想像するのも楽しいと思います。さらに、有名な戦国武将の館跡を巡りながら山頂に登り、信長が天下統一を思いながら眺めたであろう絶景を眺めるのもおすすめです。稀代の名将が建てた幻の名城跡を散策してみてはいかがでしょうか?
素材提供:トリップアドバイザー