1.「アテルイ モレの碑」とは?
2. どんな魅力が?
蝦夷の頭領が「阿弖流為」、副頭領が「母禮」で現在では社会科の教科書にも載せられています。大和政権下には入らない部族を蝦夷と侮蔑して呼び、何度も侵略しますが789年の巣伏の戦いでは阿弖流為と母禮に大打撃を与えられます。その後、軍門に下り公家達の押し切りにより処刑されてしまいます。両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営を任せる任務へと坂上田村麻呂が政府に助命嘆願したことにおいて石碑となったのです。
3.見どころ・お勧めポイント
坂上田村麻呂と清水寺
延暦3年桓武天皇により長岡京に遷都、延暦4年に長岡京造営の責任者・藤原種継が何者かによって射殺され、早良親王が憤死と不幸な出来事が相続いた事から延暦13年に平安京へ遷都が行われることになります。東征の功績に田村麻呂に下賜したのが長岡京の紫宸殿で、それが清水寺の諸堂建立に繋がっているとも考えられています。武人としてだけでなく、人間として素晴らしい人物だった田村麻呂だからこそ天皇に大切に思われていたのでしょう。
供養法要
実際に刃を交えた武人同士は理解しあえても、そうでない公家には野蛮人としか映らない・・・これが人種差別の根底にあることをこのアテルイ モレの碑から学んでいけたらと思いませんか?
達谷窟毘沙門堂
征夷大将軍である坂上田村麻呂の蝦夷討伐記念に、岸壁下方の岩屋に建てた懸造の堂が達谷窟毘沙門堂。悪路王と赤頭が砦を構えていた岩屋と伝わりますが、蝦夷の指導者・アテルイが悪路王ではないかとも・・・坂上田村麻呂は阿弖流為と母禮の助命嘆願までした人柄なので、これは考えにくいとは思います。ただ当時の朝廷からは反逆者として「蝦夷」と卑下されていた阿弖流為の為、このような言い伝えが残るのかもいしれませんね。
4.口コミ
おぉアテルイ、モレの碑だ。ドラマ「阿弖流為」は?だったが、大河「炎立つ」はなかなかの良作だった。ただ第三部はサヨク臭なクソだったが、今の大河のていたらくに比べればマシとは…どんだけ凋落するんだ大河